日々迸る熱いなんちゃら
ぼくの好きな曲のタイトルです。
…嘘ですwそんな好きな曲じゃありませんでした(^ω^)ww
けど好きだった人達が歌っていました。
だから好き。
気付いたらもう日にちは過ぎていた。
今まであんなに縛られて、囚われたようにいたのに。
決してあの日を忘れていたわけではなく、
今を必死に生きるだけで精一杯で、『過去を振り返る余裕』を忘れていた。
それもまたいいことなのかな。
過去に縛られないという点では。
続きは夜にでも書きますあ。
++
あはは、1月24日が過ぎていったね。
もう3年も経つんだよ。
去年のGLAY COUNT DOWN 08-09のライヴでの出来事。
ブロックに入ってから、ひまだったから隣の人と話していた。
色白で、細い女の人。
二人で来てたみたいなんだけど関西訛りが気さくさに拍車をかけてよく喋る。
関西特有の捲くし立てる様にではなく、ぽわぽわした、ふんわりしたマシンガントーク。
気になるのは彼女の腕や首筋に残る無数の痣。
見た事のある、その感じ。
ものすごく嫌な予感はしたんだけど、そんな事に触れる必要性を自ら感じなかったので放置していたのですが、話が進むにつれ事の核心に迫る。
先日まで入院していたという彼女が、ライヴ乗り切れるか心配って言うもんだから、
「顔色もよくないし、傷も痛そうですね」
ってふったのがよくなかったかな。
途端に彼女の口から、過去に自分の頭の中で反芻していた単語が次々と溢れだし、
「見ますか?」
と言って出された携帯の画像は、自らで撮影した自らの切り傷。
映し出された床一面の血の海。
そこに浮かぶような白い船は彼女の細い細い腕だった。
流される映像はスリルというよりも恐怖。
天井から吊るされた紐だったり自らの首に残る鬱血痕。
床に散らばる大量の薬。
思わず彼女の腕を見直した。
よく見れば傷は一つや二つなんてもんじゃない。
最近の傷と彼女が紹介したそれは、切り傷を通り越して蚯深い蚓腫れのように、紫色に変色し、肌の再生が伴って凹凸に隆起している肌。
それが両腕に7箇所以上。
長い髪に隠れて首の両側面に残るのは明らかに刃物の痕。
目を戻すと、待受に映っていたのは2人の子供の無邪気な顔だった。
「お子さんいらっしゃるんですか?」
聞かずにはいられないよ。
そんな歳には見えないもん。
彼女は25歳、2児の母、上の子を19で、下の子を22歳の時に産んでいる、と。
あの時の私と同じ時に初子を産んで、今の私と同じ歳に下の子を産んでいる。
そしてその3年後、『切らへんと不安なんよ…』と言って、子供がいても自己存在の証明を優先にして自傷を続ける。
先日入院したのも、自傷の結果、出血多量で意識なくして運ばれたとか。
今日も一時退院レベルで抜け出してきたらしい。
カバンの中にはあふれ出すほど、薬が入っていた。
生きることに何を求めるのか。
それは今でもわかったことじゃない。
それを知るために人間生きていくものだとも思うから。
けど、そこまでして、自分を半死にまで追いやって、
生きる意味ってあるのだろうか。
そうも思った。
けど、最近本当に思うんだ。
生きることの責任。
ひとつひとつの行動の裏には必ず責任が纏うという事。
その責任は大なり小なり必ずあって、当たり前のようにこなしていることでも、それは責任を果たす事と同じだと感じている。
発言の責任ってゆーのもそのひとつだよね。
もし私が子供のままだったら、大切なものに気付かないままだったら
死ぬことを肯定していただろう。
現に、自分もそんな行いをしてきたわけだし、その跡は今も残っている。
けど、あれから3年経って、
いろんなものをみてきた。
いろんな感情を知った。
大切な人達がいる。
前までは、そんなありきたりで歯の浮くようなこと、クサイクサイと受け入れずに知らん顔して正面から考えようともしなかった。
けど、親や兄弟に対する、とてつもなくムカつくんだけど言葉で表せようもないこの感情は確実に『愛』なんだよ。本当にそう思う。
自分のことを心の底から、自らの命を投げ打ってでも心配してくれる存在って、結局親しかいないんだよ。それを経験して、その存在に気付いたとき、私は彼らに対する見方は変わった。
どんなにムカツクことがあってもすべて許せるようになった。
同時に同じような存在である兄も尊い存在に変わった。
友達に対する見方も少しずつ変わった。
本当に変わったと思う。それが表にでて何をするわけではないんだけども。
自分本位の人間だったと思う。
今もあまり変わらないかもしれない。
けど、心の中では自分の行動が他人に与える影響を考えるようになっている。
それが私なりの責任だ。
よくわからないかもしれないけど(笑)
だからね、人を失うのは怖いの。
自分が大切だと思う存在を。
親ってものすごく偉大な存在だと思う。
うーん、短文的ですね、よくわかんなくなってきたww
何が言いたかったかって、この人は自分本位なままだったんだなって。
親としての責任、とかそんな言葉で固めてしまうと彼女個人の生き方を否定することになってしまうから何も言えないけども、そんな気がする。
考え方を変えてくれた存在に出会えてないのも少し悲しいことだろう。
自分哲学ってのは20年も生きてりゃ必ず誰しも持ってるわけで、それにエッセンスを加えてくれる存在ってそうそういるもんじゃない。
その存在に出会うのは稀なのかもしれないけど、その人に対する愛情があれば自傷行為はしなくてもいいのではないだろうか、そう思う。
ましてや子供がいるんだからさ…ねぇ。
まとまりのない話しになってしまいましたな(*´∀`*)
長くなりましたが今日はこれにて。
こんなことを思うから、このフレーズが心に沁みる。
『生きてくことは、愛すること、愛されること』
私はこれに対する責任を負って生きていきたい。
せめて大切な人を悲しませる事のないように。
…嘘ですwそんな好きな曲じゃありませんでした(^ω^)ww
けど好きだった人達が歌っていました。
だから好き。
気付いたらもう日にちは過ぎていた。
今まであんなに縛られて、囚われたようにいたのに。
決してあの日を忘れていたわけではなく、
今を必死に生きるだけで精一杯で、『過去を振り返る余裕』を忘れていた。
それもまたいいことなのかな。
過去に縛られないという点では。
続きは夜にでも書きますあ。
++
あはは、1月24日が過ぎていったね。
もう3年も経つんだよ。
去年のGLAY COUNT DOWN 08-09のライヴでの出来事。
ブロックに入ってから、ひまだったから隣の人と話していた。
色白で、細い女の人。
二人で来てたみたいなんだけど関西訛りが気さくさに拍車をかけてよく喋る。
関西特有の捲くし立てる様にではなく、ぽわぽわした、ふんわりしたマシンガントーク。
気になるのは彼女の腕や首筋に残る無数の痣。
見た事のある、その感じ。
ものすごく嫌な予感はしたんだけど、そんな事に触れる必要性を自ら感じなかったので放置していたのですが、話が進むにつれ事の核心に迫る。
先日まで入院していたという彼女が、ライヴ乗り切れるか心配って言うもんだから、
「顔色もよくないし、傷も痛そうですね」
ってふったのがよくなかったかな。
途端に彼女の口から、過去に自分の頭の中で反芻していた単語が次々と溢れだし、
「見ますか?」
と言って出された携帯の画像は、自らで撮影した自らの切り傷。
映し出された床一面の血の海。
そこに浮かぶような白い船は彼女の細い細い腕だった。
流される映像はスリルというよりも恐怖。
天井から吊るされた紐だったり自らの首に残る鬱血痕。
床に散らばる大量の薬。
思わず彼女の腕を見直した。
よく見れば傷は一つや二つなんてもんじゃない。
最近の傷と彼女が紹介したそれは、切り傷を通り越して蚯深い蚓腫れのように、紫色に変色し、肌の再生が伴って凹凸に隆起している肌。
それが両腕に7箇所以上。
長い髪に隠れて首の両側面に残るのは明らかに刃物の痕。
目を戻すと、待受に映っていたのは2人の子供の無邪気な顔だった。
「お子さんいらっしゃるんですか?」
聞かずにはいられないよ。
そんな歳には見えないもん。
彼女は25歳、2児の母、上の子を19で、下の子を22歳の時に産んでいる、と。
あの時の私と同じ時に初子を産んで、今の私と同じ歳に下の子を産んでいる。
そしてその3年後、『切らへんと不安なんよ…』と言って、子供がいても自己存在の証明を優先にして自傷を続ける。
先日入院したのも、自傷の結果、出血多量で意識なくして運ばれたとか。
今日も一時退院レベルで抜け出してきたらしい。
カバンの中にはあふれ出すほど、薬が入っていた。
生きることに何を求めるのか。
それは今でもわかったことじゃない。
それを知るために人間生きていくものだとも思うから。
けど、そこまでして、自分を半死にまで追いやって、
生きる意味ってあるのだろうか。
そうも思った。
けど、最近本当に思うんだ。
生きることの責任。
ひとつひとつの行動の裏には必ず責任が纏うという事。
その責任は大なり小なり必ずあって、当たり前のようにこなしていることでも、それは責任を果たす事と同じだと感じている。
発言の責任ってゆーのもそのひとつだよね。
もし私が子供のままだったら、大切なものに気付かないままだったら
死ぬことを肯定していただろう。
現に、自分もそんな行いをしてきたわけだし、その跡は今も残っている。
けど、あれから3年経って、
いろんなものをみてきた。
いろんな感情を知った。
大切な人達がいる。
前までは、そんなありきたりで歯の浮くようなこと、クサイクサイと受け入れずに知らん顔して正面から考えようともしなかった。
けど、親や兄弟に対する、とてつもなくムカつくんだけど言葉で表せようもないこの感情は確実に『愛』なんだよ。本当にそう思う。
自分のことを心の底から、自らの命を投げ打ってでも心配してくれる存在って、結局親しかいないんだよ。それを経験して、その存在に気付いたとき、私は彼らに対する見方は変わった。
どんなにムカツクことがあってもすべて許せるようになった。
同時に同じような存在である兄も尊い存在に変わった。
友達に対する見方も少しずつ変わった。
本当に変わったと思う。それが表にでて何をするわけではないんだけども。
自分本位の人間だったと思う。
今もあまり変わらないかもしれない。
けど、心の中では自分の行動が他人に与える影響を考えるようになっている。
それが私なりの責任だ。
よくわからないかもしれないけど(笑)
だからね、人を失うのは怖いの。
自分が大切だと思う存在を。
親ってものすごく偉大な存在だと思う。
うーん、短文的ですね、よくわかんなくなってきたww
何が言いたかったかって、この人は自分本位なままだったんだなって。
親としての責任、とかそんな言葉で固めてしまうと彼女個人の生き方を否定することになってしまうから何も言えないけども、そんな気がする。
考え方を変えてくれた存在に出会えてないのも少し悲しいことだろう。
自分哲学ってのは20年も生きてりゃ必ず誰しも持ってるわけで、それにエッセンスを加えてくれる存在ってそうそういるもんじゃない。
その存在に出会うのは稀なのかもしれないけど、その人に対する愛情があれば自傷行為はしなくてもいいのではないだろうか、そう思う。
ましてや子供がいるんだからさ…ねぇ。
まとまりのない話しになってしまいましたな(*´∀`*)
長くなりましたが今日はこれにて。
こんなことを思うから、このフレーズが心に沁みる。
『生きてくことは、愛すること、愛されること』
私はこれに対する責任を負って生きていきたい。
せめて大切な人を悲しませる事のないように。
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